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『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』

今週の一冊『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』

2747号 2021年8月29日

(本日のお話 2934字/読了時間4分)

■こんにちは。紀藤です。

昨日は大学院の授業。

またその後テストをはさみ、
大学院の同期、先輩、先生方との
オンライン懇親会でした。



さて、本日のお話です。

毎週日曜日は、お勧めの一冊をご紹介する
「今週の一冊」のコーナー。

今週の一冊は、

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『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』

中島 義道(著) (PHP新書)



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です。

■大学院の授業で

「対話について学ぶ中で
紹介された一冊。

私たちは普段、
コミュニケーションを通じて
仕事や日々の生活を過ごしていますが

”言葉を使って他者と対峙する時に、
どのような姿勢でいるのか?”

について、

さほど自覚的ではないのかも
しれません。

■例えば、です。

”仕事で打ち合わせをする”

とします。

当然打ち合わせなので、

アジェンダは決まっていて
なんとなくその通りに進むでしょう。

しかし、

・なんとなく脇道に反れて
世間話的なものをすることもあれば

・物事を決めるために時に
意見がぶつかって緊迫感が生まれることもあれば

・意見を広げるために、
幅広く意見を持ち寄って自由に会話する

こともあり、

”打ち合わせ”という中でも、

様々な空気感が生まれ、
山の天気のごとく変化をします。

その中で、

「議論」と「対話」と「雑談」の違い、

それぞれが持つ、
意味や重たさを定義づけて、

モードを意識して話すひとが、
どれほどいるだろうか、

ということ。

※ちなみに、

「対話」=
雰囲気:自由なムード
話の中身:真剣な話し合い

「議論」=
雰囲気:緊迫したムード
話の中身:真剣な話し合い

「雑談」=
雰囲気:自由なムード
話の中身:たわむれのおしゃべり

という定義付け方もあるようです。

(※参考:中原淳.長岡健(2009)『ダイアローグ対話する組織』(ダイヤモンド社)

■さて、少し
「言葉を交わすこと」について
考えてみましたが、

今回ご紹介の一冊
『対話のない社会』では、

”日本的文化が
<対話>を圧殺している”

と警鐘を鳴らしています。

それは、いわゆる

”日本的な思いやり・優しさ”
”相手や空気を慮る和の精神”

のごときものが、

「湧き上がる率直な疑問」
「違うと思った時に違うと言えること」
「相手との意見の違い・対立に向き合うこと」

を妨げているのではないか?

と言うわけです。

■「思いやり」というのは、

実に美しい言葉で
否定できなかったりします。

しかし、著者は、

”「思いやり」という名の暴力がある”

というのです。

その

「思いやり」「配慮」「察する」

などの言葉、姿勢は

実は自分の「ズルさ」「卑怯さ」を隠す、
隠れ蓑になってはいないか?

と問うのです。

■例えば、会議でのワンシーン。

自分が特定の誰かの発言にたいして
「よくないな」と否定的に思ったとしましょう。

しかし、思うのです。

「自分がここで本音を言うと
相手が傷つくかも知れない」

と思ったとして、

「後で言おう」等の配慮をし
何も言わなかったとします。

それはパッと見、
”思いやり”があるように
見えるかもしれない。

しかしながら、
その背後には別の思いがないだろうか?

・相手からの反撃を食らうかもしれない

・せっかくまとまりそうな空気なのに
KYなこと言ったら場が凍ると自分がイヤだ。

・というか、相手が損するだけだから
面倒くさい事に巻き込まれたくないし
発言しないほうが得だ。

などなど。

■誰も見ていないところでは、
席を譲らずに寝たフリをするのに、

上司が近くにいたら
「どうぞどうぞ」といい人ぶる

都合のよい思いやりが、
そこにはないだろうか?

自分を守ろうとするズルさが
潜んではいないだろうか。。。

そのように著者は、問うのです。

■本当に相手のこと、全体のことを思い、
そして自分の本心に誠実なら、

あえてズバリと確信をついたほうが、
良いのかも知れない。

そこで、違う意見が来たとしても、
そこから歩み寄り、対話を重ねるほうが

実は建設的な場になるかもしれない。

ただ、なんとなく

”言えない空気”があり、

”言わない方が得”という空気もあり

そうして、
全体として受け身になっていく。

それは、

「本当はあのときこう思っていた」、
という場の声、自分の内なる圧殺し、

短期的な「得」をする代わりに
大切な何かを失っているかもしれない。

■失ったものとは、

・「こう思う」と純粋に思い、
他者に発言する自尊心

かもしれないし、

あるいは、自分と違う人生を歩み、違う視点を持つ
他者の存在を向き合わないことで

・他者への尊重・他者とのつながり

が失われているのかもしれません。

■著者は、こう言います。

『<対話>とは、全裸の格闘技である』

、、、と。

そしてこう続けます。

”対話とは、全裸で行われた
古代ギリシャの格闘技に似ている。

(中略)

身分・地位・知識・年齢等々、
ありとあらゆる「服」を脱ぎ捨て、
全裸になって「言葉」という武器だけを手中にして、戦うこと

それが正真正銘の<対話>である。”

語られている内容に向き合う

議論に勝ちたいゆえに、
相手を打ち負かそうとするのは
<対話>ではない。

対立を避けようと、
純粋な疑問や考えを投げ込まないことも
<対話>ではない。

相手と向き合いつつ、
自分が放った言葉にも責任を持つ。

その対話という言葉には、

”その場しのぎの優しさ”

よりも、どことなく

”格闘技”

という真剣さに言葉に似たものを感じます。

■もちろん、

常に<対話>をしましょう、
というわけでもありません。

雑談も、
決めるための議論も、
もちろん必要。

ただ、時には
言葉を大切にして
<対話>をしたらどうか。

お互い歩み寄って
理解し合えない難しさがある中でも

相手の視点を、自分なりにお互いが理解し、
そして新しい現実を作り出すために、

<対話>をもう数%でも
社会の中で増やしていくこと。

このことを

”日本的文化における
思いやり・優しさ”

にもうちょっとだけ付け足すことで
より良い世の中になるのではないか、

、、、そのように著者は語り

私も、大変共感しました。

■読んでいて、
私(紀藤)の率直な感想として、

「著者は、看板とか
駅のアナウンスとか違法駐車とか、
色んなことに怒っているなあ・・・」

とその感情的とも思える筆致に、
少し反感も覚えつつ読んでいましたが、

読み進めるうちに、

「それってちょっと
おかしいんじゃないの」

「自分にはよく
わからないんだけどなあ」

「それってどういうことですか」

と疑問を持たずに、
ただただ受け入れてしまう怖さ、

そしてそうなっている自分に
向き合わされた気がしました。

対話とは全裸の格闘技、まさに、です。

(以下、本の紹介です)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「何か質問は?」―教師が語りかけても沈黙を続ける学生たち。

街中に溢れる「アアしましょう、コウしてはいけません」という放送・看板etc.

なぜ、この国の人々は、個人同士が
正面から向き合う「対話」を避けるのか?

そしてかくも無意味で暴力的な言葉の氾濫に耐えているのか?

著者は、日本的思いやり・優しさこそが、
「対話」を妨げていると指摘。

誰からも言葉を奪うことのない、
風通しよい社会の実現を願って、
現代日本の精神風土の「根」に迫った一冊である。

※「BOOK」データベースより
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

優しくて、配慮してしまう、
空気を読んでしまう方にこそ、
読んでいただきたい一冊。

きっと衝撃を覚えること、
間違いなしです。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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<今週の一冊>

『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』
中島 義道(著) (PHP新書)


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