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3445号 2023年7月30日

今週の一冊『朽ちていった命:被曝治療83日間の記録』

(本日のお話 3533字/読了時間4分)

■こんにちは。紀藤です。

引き続き、祖父のお見舞いとワーケーションとのことで
宮崎に来ております。

また6kmのランニング。

ワラーチ(サンダル)ランニングに初めて挑戦しました。

小石を踏むとめちゃ痛いのですが、
足の機能を鍛えている感があり、
なんだかパワーアップできそうな予感。。。

今後も続けたいと思います。



さて、本日のお話です。

毎週日曜日は、お勧めの一冊をご紹介する
「今週の一冊」のコーナー。

今週の一冊は

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『朽ちていった命:被曝治療83日間の記録』

NHK「東海村臨界事故」取材班 (著)


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です。

■妻方の実家が
茨城県ひたちなか市にあります。

そして、実家に帰った際は、
そのあたりをランニングします。

ひたちなか市から、
国道線をずっと真っ直ぐ10kmほど走ると、

東海村の「原子力科学館」があり、
以前からその有名な名前と施設は
認識はしていました。

、、、そう、走るたびに思い出すのが
1999年に起こった東海村の臨界事故です。

その当時は学生でしたが
ただ事ではない雰囲気の事故であると
テレビのニュースごしに印象を受けた記憶があります。

■そんな事を感じつつも、

実際に東海村で何が起こったのかは、
Wikipediaやネットで調べた情報程度でした。

そんな中で、知人が

「原発や放射線の恐ろしさを知る上で、
この本は読んでおいたほうがいい」

とSNSで紹介をされていたのが1ヶ月ほど前。

そのタイミングで20年前の事故について
遅ればせながらですが手にとって読んだのでした。

■さて、本書がどのような本かと言うと、

東海村の臨界事故において
被爆をした1名の当事者にスポットを当て、

被爆をした初日から
その命が朽ちた83日後まで、

治療に当たった医療従事者と
当人症状にスポットを当てて
その経緯を克明に描いたドキュメンタリーです。

以下のような
被爆の場面から始まります。



1999年9月30日。午前10時。

核燃料作業中に、ウラン溶液を
ロウトに流し混んで7回目、

作業員2名のうちの1名、
大内氏(当時35)が、バシっという音とともに
青い光が放たれるのを見ました。

それは、放射線物質が臨海に達した時に放たれる
「チェレンコフの光」と呼ばれるものでした。

その瞬間、放射線物質の中で、
もっともエネルギーが大きい中性子が
作業をしている2名の体を貫いたのでした。

1年間で人間の限度とされる
放射線の2万倍の量の放射線を浴び、
その量の放射線を浴びた人間の致死率は100%。

、、、放射線が出たことを示す
サイレンが施設に鳴り響き、

施設から逃げる最中に大内氏は嘔吐し、
意識を失ったのでした。

■それまで国内の原子力関連施設で、
重大な被爆事故が起こったことは
ありませんでした。

大量の被爆患者の治療にあたることになり、
そして致死率100%と呼ばれる被爆の状況から、

東京大学医学部教授の前川氏が中心となり
その未知の治療を行っていくのでした。

そして、人知を超えた放射線

■おそらく、

そして多くの人は私と同様に、

”放射線は危険なものである”

という共通認識は持っていると思います。

私の場合、

原爆の後の広島の黒い雨、

『ハダシのゲン』で描かれた被爆患者の症状、

あるいはどこかで見たことがある
東海村の被爆患者の終末期の状況の写真などから

「恐ろしいものである」という認識は
もちろん持っていました。

、、、しかし、本書を読んで、

そのリアルさ、人知を超えた
放射線物質の恐ろしさの解像度が
圧倒的に高まったように感じたのでした。

■入院当初は、
全く元気なように見える大内氏。

意思疎通も普通にでき、看護師らも

「もしかしたら
回復するのかもしれない」

と思った中、その染色体を見ると、
特に被爆をした体の前部は、

”生命の設計図”である染色体が
バラバラになっていたのでした。

それはすなわち、

”体が、白血球も、皮膚も、筋肉も、
新しい細胞を作ることができない”

事を意味します。

つまり、細胞の新陳代謝がなく
細胞が死んでしまったあとは、
ただ”体が朽ちていく”のを待つ状況になる、

これが一体何を意味するのかを、

実際に体に起こる変化を描くことは
これほどまでに恐ろしいことになるのか、、、

と思わざるを得ませんでした。

■そして、あとがきでは
このように説明されます。

「核戦争や、原子力の事故で
放射性物質がばらまかれた場合、

このような症状が何百、何千、何万の身に
起こりうることになる」

ということ。

実際に、チェルノブイリ原発事故では
その周辺に記録される以上の被爆者がいたと
想定されると言われていました。

「目に見えない放射性物質だからこそ、
誰が被害者になっているのかわからない」

ここに恐ろしさの本質があると述べられていました。

納得した、と軽く言えないものではありますが、
以前よりも、臨場感を持つことができたのは確かです。

■以下、本書の紹介です。

(ここから)
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1999年9月に起きた茨城県東海村での臨界事故。
核燃料の加工作業中に大量の放射線を浴びた患者を救うべく、
83日間にわたる壮絶な闘いがはじまった──。

「生命の設計図」である染色体が砕け散り、
再生をやめ次第に朽ちていく体。

前例なき治療を続ける医療スタッフの苦悩。
人知及ばぬ放射線の恐ろしさを改めて問う渾身のドキュメント。

<目次>
被曝 1999年年9月30日
邂逅―被曝2日目
転院―被曝3日目
被曝治療チーム結成―被曝5日目
造血幹細胞移植―被曝7日目
人工呼吸管理開始―被曝11日目
妹の細胞は…―被曝18日目
次々と起きる放射線障害―被曝27日目
小さな希望―被曝50日目
被曝59日目
終わらない闘い─被曝63日目
1999年12月21日─被曝83日目
折り鶴─未来

あとがき
解説 柳田邦男

<抜粋>
被曝 一九九九年九月三〇日

夏が終わったにもかかわらず、強い日差しが照りつけていた。
暑い一日になりそうだった。

茨城県東海村の核燃料加工施設「ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所」は
東海村と那珂町との境の国道六号線から少し入ったところにある。

一五ヘクタールあまりの敷地の周囲には飲食店や民家が点在している。
このJCO東海事業所に作業員として勤める大内久は、いつもどおり午前七時に職場に出勤した。

大内は三五歳。妻と小学三年生になる息子がいる。
息子の小学校入学にあわせて実家の敷地に家を新築し、家族三人で暮らしていた。

几帳面な性格の大内は毎日午前六時には起きて、六時四〇分に家を出た。
一日一箱のたばこを吸い、午後五時過ぎに帰宅したあと、
焼酎の水割りを二杯ほど飲んで、九時には寝る。それが大内の日常だった。

一九九九年九月三〇日。
この日も、そうしたいつもと変わらない一日になるはずだった。
この日、大内は午前一〇時に事業所内の転換試験棟という建物で作業を始めた。
核燃料サイクル開発機構の高速実験炉「常陽」で使うウラン燃料の加工作業だった。

大内にとって、転換試験棟での作業は初めてだった。
上司と同僚の三人で九月一〇日から作業に当たってきて、いよいよ仕上げの段階に来ていた。

大内は最初、上司の指示に従い、ステンレス製のバケツの中で溶かしたウラン溶液を
ヌッチェとよばれる濾過器で濾過していた。
上司と同僚は濾過した溶液を「沈殿槽」という大型の容器に移し替えていた。
上司はハンドホールとよばれる覗き窓のようになった穴にロウトを差し込んで支え、
同僚がステンレス製のビーカーでウラン溶液を流し込んだ。

濾過の作業を終えた大内は上司と交代し、ロウトを支える作業を受け持った。
バケツで七杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し込み始めたとき、
大内はパシッという音とともに青い光を見た。
臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。
その瞬間、放射線のなかでももっともエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。

被曝したのだった。

午前一〇時三五分、放射線が出たことを知らせるエリアモニターのサイレンが事業所内に鳴り響いた。

「逃げろ!」

別室に移っていた上司が叫んだ。
大内は急いでその場を離れ、放射線管理区域の外にある更衣室に逃げ込んだ。
と、その直後、突然嘔吐し、意識を失った......。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(ここまで)

ぜひ、多くの方に読んでいただきたい、

そして知っていただきたいと
思わされた一冊でした。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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<今週の一冊>

『朽ちていった命:被曝治療83日間の記録』

NHK「東海村臨界事故」取材班 (著)

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