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3520号 2023年10月14日

「ヒロアカの名シーン」で覚えた違和感の正体、そして平等という欺瞞

(本日のお話 1253字/読了時間2分)

■こんにちは。紀藤です。

昨日より、祖父の49日の法事のため
宮崎に来ております。

宮崎もすっかり涼しく、
秋の訪れを感じますね。

親族が集まると、たいへん賑やかです。
(うるさい、ともいえる笑)



さて、本日のお話です。

昨日、ふとしたご縁で
読書会をNPO法人として12年間実施されている
同世代の方とお話をさせていただきました。

新しい情報というのは、
他者からもたらされるもの。

自分では手に取らない本や情報も
「お勧めです」と言われて手にしてみて、

新たな視点が手に入るということも
多分にあるものです。

その方から


『「能力」の生きづらさをほぐす』
勅使川原 真衣 (著), 磯野 真穂 (解説)



という著書を教えてもらったのですが
書かれている内容が、

”なんとなく感じていた
 教育や評価に関する違和感”
 
を明らかにしてくれた感じがして
大変感銘を受けております。

(まだ途中ですが)



今日はその書籍を読みながら感じたことについて
皆様に共有させていただければと思います。

それでは早速まいりましょう!

タイトルは



【「ヒロアカの名シーン」で覚えた違和感の正体、そして平等という欺瞞】



それでは、どうぞ。



■最近のアニメは、
本当に面白いですよね。

『呪術廻戦』
『鬼滅の刃』
『推しの子』
『ジョジョの奇妙な冒険』
『チェンソーマン』
他多数・・・


現代アニメ描写や表現力は
漫画では描けない世界を見せてくれて、
本当に引き込まれます。



■私(紀藤)の個人的な嗜好では


『僕のヒーローアカデミア』
(通称ヒロアカ)


はかなり好きでございます。

なんというか、

”なんの能力もなかった少年が
 努力して、何者かになっていくストーリー”
 
とか
 
”限界を越えていく(PLUS ULTRA)”

というメッセージ。

これが個人の琴線に触れ、
思わず涙腺がゆるむこともしばしば。
(というか泣く)

これまでのシリーズも
いちファンとしてガッツリと見てきました。



■そんな「ヒロアカ」ですが、
映画化もされております。

その映画を先日、
アマプラでみていた際のお話。


いよいよクライマックスで
主人公が、ボスを追い詰める中で、
このように言うのです。

**

主人公

「お前は諦めたんだ・・・!
 諦めなければ何度もぶつかっていけば、
 人と触れ合えたかもしれないのに。
 
 病気とかいって勝手に諦めて絶望して
 お前はぶつかる事をやめたんだ!」


ボス「、、、だまれ、だまれぇぇ!」

(そして最後の戦いへ)

**

という場面です。



■おお、そうだそうだ、、、!

諦めちゃダメなんだ!
限界を超えるのが大事なんだ!!

と表面ではグッときて感動している自分を
涙腺付近、全面で感じつつ、

一方、もうひとりの
胸の奥のほうにいる自分は
ある違和感も覚えていたのでした。


それを言葉にするならば、

「とはいっても、このボスのように、
 小さい頃から誰とも触れ合えなかったら、
 確かに絶望するし、世界に怒りを覚えるのも仕方ないよなあ」
 
そして、

・「”お前は”それを勝手に絶望して、ぶつかることをやめた」と
 ぶつかれなかった理由や責任を、本人に帰属させているのも
 ちょっとかわいそうだなあ
 
と思ったのでした。


なんというか本人(ボス)の
消化できない「かなしみ」のようなものを
勝手に感じている自分もいて、

ちょっとだけもやっとした、というお話。



■、、、いや、わかるんです。

たしかに大事なクライマックスの場面で、

主人公
「いやたしかに、あなたの出自や、
 生得的な特殊な能力(相手を弾いてしまう)があったら、
 そのように感じるのは、当然のことかもしれない。
 
 だから、あなたに100%、
 今回の一連の原因の帰属があるとも思わない。

 しかし、あなたが世界の行ったテロ行為は
 到底許されるものではない。
 
 人には選択する力があるともいう立場において、
 あなたには、責任の一旦がある!」
 
ボス
「だまれ、だまれぇぇ!」


、、、とはたぶん
ならないでしょう。

そこで「スマ―ッシュ!」と
必殺技を繰り出しても、
あんまりキマるイメージもありません(汗)



■でも、現実世界では

・同じように、
 「公平な条件と機会」が与えられており
 
・ゆえに、本人の能力や努力に
 ほぼほぼ原因が求められる
 
というのが存在している感覚もあり。

だから、主人公の先述の

「お前は諦めたんだ!」

の一言を受け入れてしまうよな、
とも思ったのです。



■さて、ヒロアカのこの場面の違和感。

冒頭にお伝えした書籍、

『「能力」の生きづらさをほぐす』
勅使川原 真衣 (著), 磯野 真穂 (解説)


で、関連するような話が
述べられていました。

それは、

「格差を見えにくくしている社会の仕組み」

ということで、
このように表現されていました。


(以下引用します)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・「格差の問題」もようやく重要テーマになってきた。
 「実際に(もし)格差があるのなら」て言うほどに、
 大っぴらには語られてこなかった現実がある。

・この点について、教育社会学では、問いを深める。
 その問いは「格差を見えにくくする仕組みがあるのではないか?」。
 
・その「格差を見えにくくしている仕組み」とは
 一見疑いどころがなさそうな「学校教育」ではないか、と考える。
 
・義務教育はすべからく普及し、教育内容も全国一律で定められている。
 日本の教育といえば、平等で公平な印象そのもの。
 
・ゆえに
 「頑張れば、何にでもなれる!機会は平等なのだから、
  それを生かすも殺すも自分次第」
 「能力に合わせた将来が自分の意志で選べるなんて、
  江戸時代ではなく現代に生まれてよかった」となる。
  
・教育があまりに「平等に」「能力を伸ばすもの」と信じられているがあまり、
 もともとある生まれの格差は置き去りのまま、
 あたかも公平なレースをしている気満々になってしまっている。
 
・つまり、平等と信じられている日本教育が
 生まれの格差の是正しようという気持ちになりにくい仕組みを
 作り上げてしまっている。
 
  
※『「能力」の生きづらさをほぐす』P43-44を参考・引用し著者により編集
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(ここまで)

、、、と。



■「平等な機会提供がある」と
 信じられるがゆえに


「うまくいかないのは
 あなたに能力や努力が足りない」


と個人へ責任を帰する構造になる。

そうとまではいわずとも、
生まれの格差の是正の意欲を生みづらくなる、

、、、これはヒロアカに
繋げて言うのであれば

”ボスの生まれの格差”

をやや軽視しているようにも
思えなくもないな、、、と思ったのでした。

(やや強引ですが苦笑)



■個人への責任だけでなく、
それを生み出す仕組み、

社会システムや構造に
もっと目を向けていく必要があるのだな、、、、


そんなことを

ヒロアカのワンシーンの違和感、
そしてこの著書を読みながら感じたのでした。



■ちなみに、

映画ではなく本編のストーリーでは

主人公が、本編のボス的な人に対して

”小さい頃に負った心の傷に共感をしつつ
 それでも相手に対峙をする”
 
という姿勢を見せています。

ゆえに、

主人公の本当の気持ちは
私が解説で述べた長文の方に、
近かったのであろうと推測しています。


「お前はそれを勝手に絶望して、
 ぶつかることをやめたんだ!」

と言ったのは、時間の尺と、
言葉のインパクトを重視した結果なのだろう、

と、勝手に思っております。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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<本日の名言>

すべての人間が、いかなる意識においても、
またどんなときでも、自由かつ平等であり、
そうであったという教義は、まったく根拠のないフィクションである。

トーマス・ハックスリー
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