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2299号 2020年6月6日

7つの習慣の元トップセールスが語る『7つの習慣』〜「刺激と反応の間」ってなんだ?(第一の習慣)〜

(本日のお話 3011字/読了時間5分)

■こんにちは。紀藤です。

昨日は3件のアポイント。
ならびに、夜は友人とのZOOM飲み会でした。



さて、早速ですが本日のお話です。

毎週土曜日は

「7つの習慣の元トップセールスが語る『7つの習慣』コーナー」

としてお届けさせていただければと思います。
(また気分次第で土曜日以外もやるかもですが。
適当でスミマセン)

さて、前回までが「基礎原則編」でした。

・インサイドアウト
・パラダイム
・成長の連続体

という話をしてまいりました。

本日はいよいよ「第一の習慣」に
入りたいと思います。

それでは早速まいりましょう。

タイトルは、

【「7つの習慣の元トップセールスが語る『7つの習慣』〜「刺激と反応の間」ってなんだ?(第一の習慣)〜】

それでは、どうぞ。

■皆さまは、こういった光景、
今まで見たことはありませんでしょうか?

例えば、ファミレスなどで

「マジ、ありえないよね
あんな風に言われたらキレて当然だよね」

「わかるわかるー」

というような会話。

「腹が立つ事言われた」
=「怒って当然」
という公式が、前提として
あるようにも思えます

■あるいはこんなシーン。

満員電車で
足を踏まれたか何かで、
ものすごい怒りまくっている
どこぞやのおじさん。

人前にもはばからず激高し、
朝から、電車内で怒鳴っている。

「オイ!お前わざと踏んだだろう!!」

と、自分の感情を抑えられない、
みたいな場面。

(ああ、実にイタいですよね、、、)

■そして私は、
この両者に対して言いたい。

「これこれ、そこのお二方。

まず、7つの習慣の第一の習慣
『刺激と反応の間』の話を、

一度読んでみてはいかがかね」

、、、と。

■さて、今日のテーマですが、
「第一の習慣 主体的である」に
いの一番に書かれている項目。

【刺激と反応の間】

のお話をお伝えしたいと思います。

■さて、突然ですが
皆さまにご質問です。

「Q,「主体的」の反対語はなんでしょうか?」

、、、

、、、

はい、答えはなんでしょうか?

「受動的」?

うん、それも、いいですね。
いい線を言っているかと思います。

普通に考えると、
そうですよね。

■ただ、「7つの習慣」において。

「主体的」の反対の言葉とは、

”『反応的』である“

としています。

■“反応的である“とは何でしょう?

それは、

『◯◯だから、自分は●●である』

という世界観を持つことです。

、、、ちょっとわかりづらいですね。

例えば、先程の女性の世界観なら

「{腹立つことを言われた}から、
{自分は当然怒った}のである」

となりますし、

足踏まれて激高おじさんの世界観は

「{足を踏まれた}から、
{自分は当然怒った}のである」

となります。

実際はどうかわかりませんが、
まあ、当たらずしも遠からずのはず。

■この状態は、
「刺激 即 反応」ともいわれ

「刺激と反応の間にスペースがない」

状態といえます。

主体的な状態の逆、
まさしく「反応的な状態」です。

されたことに対して(刺激)
ただ感情を発露させているだけ。

それは、平たく言えば
精神の育っていない、子供のようなもの。

・子供がお菓子を買ってもらえない。

・自分の思い通りにならない、
自分の感情を抑えられない。

・周りにどう思われるか、など関係なく
感情を爆発させる。そして泣く、叫ぶ。

という構造です。

自分の感情をコントロールできない。
外部の刺激に対して、自分の気持ちを選択できず、
依存的になっています。

先の電車の大人げないおじさんも、
気持ちの構造は同じ。

「足踏まれたら(刺激)、
怒って当然でしょ(即反応)」

これでは、よろしくありません。

自分の望むものを手に入れる成功なぞ、
望めるはずもない。

■コヴィー博士は、
「主体的な状態」の1つの定義を、

『刺激と反応の間に”スペースをあける”』

ことができていること、と言います。

これが、第一の条件だ!と。

成功に向けての一丁目一番地。
これがなくては何も始まらない。

つまり、

「外部の環境・状況に関わらず、
”自分が選択できる”という世界観を持つこと」

これがまさに”主体的”である、
というのです。

■この話の究極系で、
著書でもある例が挙げられています。

それが、

『夜と霧』(著:ヴィクトール・フランクル)

のエピソードです。

※私も以前、メルマガでご紹介いたしました
↓↓
1562号 今週の一冊『夜と霧』
https://www.courage-sapuri.jp/backnumber/8534/

ナチスの収容所で強制労働をさせられた
フランクル氏自身のノンフィクションの話です。

食べ物も、殆どない。
極寒の地での強制労働。

手を休めると、看守からの暴力。
番号で呼ばれ、名前すら奪われる。

そして、愛する妻は
収容所に入れられている。
生きているかどうかもわからない。

しかし、フランクル氏は
そんな状況下で、こう語るのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

収容所に入れられ、何かをして
自己実現をする道を断たれるという、
思いつく限りで最も悲惨な状況、

できるのはただこの耐えがたい苦痛に
耐えることしかない状況にあっても、

人は内に秘めた愛する人のまなざしや
愛する人の面影を精神力で呼び出す
ことにより、満たされることができるのだ。

わたしは生まれてはじめて、
たちどころに理解した。

天使は永遠の栄光をかぎりない
愛のまなざしにとらえているがゆえに
至福である、という言葉の意味を…。

※『夜と霧』より引用
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

、、、これです。

まさに「主体性」の極地。究極系。

常人を超えたような状況ではありますが、
フランクル氏が命の極地において、
見出したこの状況こそ、

コヴィー博士が語る、
「主体的」を表現しています。

■つまり、

『どんな状況でも、
人には選択の自由がある』

ということ。

フランクル氏の場合、
(ちょっと例が極端ではあるものの)

”どれだけ暴力を受けて、
希望が持てない状況でも(=刺激)

自分の心の自由は奪えず、
愛する人を思い出し心を満たしつづけた(=反応の選択)”

これを、極限の状況で
フランクル氏は体現し続けた。

ここに彼の偉大さがあります。

フランクル氏の書いた
『夜と霧』が名著中の名著である理由は、
これを彼自身の根性論などではなく

”精神科医で心理学の専門家として、
人間存在とはなにか?”

という話にまで
昇華しているところにあります。

つまり、人間が持ちうる力である
と証明したとも言えるかもしれません。

■、、、としたときにです。

・他の誰かに嫌味を言われて、
(冒頭の女性よろしく)

・あるいは電車で足を踏まれて、
(満員電車の足踏まれたおじさんよろしく)

「こんな事されたから、怒って当然」

というのは、

その人が持つ自身の
”選択の自由”を全く使っていない、
むしろその力があることを気づいてさえいない、

となるのでしょう。

■ですが、人は、

たとえどんな状況でも、
自分の感情の色を決めることができる。

”晴れてよし 曇りてもよし富士の山 もとの姿は変らざりけり”

という言葉を残したのは、
江戸の幕臣・山岡鉄舟と言われますが、

「どんな状態でも、自分の心持ち次第である」

という意味では、
フランクル氏の言っていたこと、
そしてコヴィー博士が伝える「主体性」に
通ずる者を感じるように思います。

■さてでは、どうずれば、
この「刺激と反応の間にスペースを持つ」
ことができるのでしょうか?

反応的にならず、
主体的になるためには
どうすればよいのでしょうか?

フランクル氏の話は、
流石にちょっとできる気がしない?

はい、わかります。わかります。

そんな時に、コヴィー博士は

”『人間だけが持つ4つの力』があると発見した”

その4つの力を使えばよい、
と本書で語ります。

それが1つのヒントになるかと。

その4つの力とは以下の通りです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1,自覚・・・自分自身を客観的に見つめる能力

2,想像・・・現実を超えた状況を頭の中に生み出す能力

3,良心・・・善悪を区別し、自分がどうありたいか判断する力

4,意志・・・他のさまざまな影響に関係せず、行動する能力

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

です。

つまり、先程の
「満員電車の足を踏まれた」に
当てはめて”主体的に”考えてみると、

{足を踏まれた!イラッ!!}(=刺激)



1,自覚

「足を踏まれた、そして周りに人がいる。
そして、今自分は猛烈に腹がたった。怒鳴りたい自分がいる」

2,想像

「怒鳴ったら、周りから注目される
相手と言い合い、ケンカになるかもしれない
キャリアに影響がでるかも」

3,良心

「怒り散らすような子供じみた行為は
本当は良くないと分かっている」

4,意志

「腹が立っているが、なんとかグッとこらえて、
相手の目に訴えかけるだけにしよう。
あるいは、冷静に「足、気をつけてください」と言おう」



{足、踏んでいますよ(努めて冷静に言う)}(=反応)

とできます。

そして、これらは
犬や猿、他の動物は持っていません。

■『刺激と反応の間』。

これを自覚して、スペースを開けるのは
精神的な筋力のようなものです。
鍛えることができるのです。

確かに、人ですから
腹が立ちます。

イラッとすることも、あるでしょう。

ただ、上記の「4つの力」に対して
自覚的になって行動することで、
「適切な反応」を少しずつ選べるようになればいいのです。

■そして、

『自分には選択する自由がある』

という世界に立って初めて、
7つの習慣でこれから語る大切なことも、
”自分が選択してできるようになる”のです。

だから、第一の習慣の
一番最初に、この

【刺激と反応の間には、選択の自由がある】

という話を、コヴィー博士は
語っているのでした

では、この選択の自由を手に入れ、
あなたは何を選び、どう行動するのか?

それが「第一の習慣 主体的である」の後半、

『影響の輪にフォーカスする』

へと続いていきます。

ということで、本日はここまでとします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<今日のまとめ>

・「第一の習慣 主体的である」において、
主体的の反対の言葉は、反応的である、という。

・主体的な人は、
『刺激と反応の間にスペースをあける」ことができ、
行動を選択をする自由を持っている。

・刺激と反応の間にスペースを開けるためには、
人間だけが持つ4つの力を意識することである。

・それは、「自覚」「想像」「良心」「意志」の4つ。
これらは精神的な筋力のようなもので、鍛えることができる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※本日の話は、著者(紀藤)個人の見解も一部含めて入れて説明したものです。

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<本日の名言>

まず必要なのは「主体的であること」。

ささいな行動でも
感情的な反応に身を委ねたり
受け身で行動するのではなく

自分で振る舞いを選択すること。

スティーブン・R・コヴィー

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