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1273号 2017年8月9日

幼少期の記憶は、必ずしも正しいとは限らない、という話

(本日のお話 2807文字/読了時間3分)
■おはようございます。紀藤です。

昨日は一件のポイント。
ならびに企画書作成など。

そしてランチ、ディナー共に、
お客様であり、友人であり
フランクリンコヴィーの社内ファシリテーターの方を含め、会食。

夜については、若いお二人でしたが、
本業以外にも、自分の将来のために.
そして自分のやりたいことのために、休日もはばからず、
学校に通い、新しいチャレンジをしている、
そんなお話を聞きました。

これからは、「100年時代」などと言われ
世間にもパラレルキャリア、 2枚の名刺を持つ、
など言われていますが、そういった人が周りにどんどん増えていっているな、
と感じます。

改めて、時代の変化を感じる今日この頃。



さて、本日の話です。

昨日ふと開いたニュースで、こんな話が紹介されていました。
それは、

『遅生まれの運動能力優位中学3年生まで』(読売online)

という記事。

何気ない記事だったのですが、
この記事を見て私は、なかなかの衝撃を覚えたのでした。

今日は、この話について、
思うところ、また一つの教訓を、
皆様にご共有させていただきたいと思います。

タイトルは、

「幼少期の記憶は、必ずしも正しいとは限らない」。

それでは、どうぞ。

■先述の『遅生まれの運動能力優位』について、
こんなことが書かれていました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 幼少期は、同じ学年でも4月生まれと翌年3月生まれで体格の違いが大きく、
運動能力にも差があることは、経験的に知られている。

 チームは奈良県教委の協力を得て、こうした差がいつまで続くのかを調べるため、
県内の小中学生計3610人が昨年行った体力測定の結果を分析。

学年、男女ごとに4~9月生まれと、10月~翌年3月生まれにグループ分けし、
50メートル走、立ち幅跳び、握力などの成績の平均値を比較した。

 その結果、男子は中学3年生でも、4~9月生まれの方が高い運動能力を示した。
一方、女子は小学校低学年は同様の傾向を示したが、5年生以上では差がなくなっていた。

Yomiuri onlineより引用
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この記事を読んで、私自身
「確かにそうだよなぁ」なんてなんとなく考えていましたが、

自分の少年期(小学校、中学校時代)を思い出し、
突如はっとさせられたのです。
(ちなみに、私は12月生まれ)


■少しだけ、私の昔の話をさせてください。

私は趣味で、 100キロウルトラマラソンや
トライアスロン(これから)などをします。

その理由について、こんなことを聞かれます。

「100キロマラソン走ったり、
 トライアスロンチャレンジしたり、テニスをやったり
そういったモチベーションはどこからでてくるのですか?」

というようなご質問。
こういったことを聞かれた時に答えるのが、


「コンプレックスです。
私、小学校、中学校の時、体が小さく、
運動もできなくて、入ったハンドボール部でも背番号14番中ずっと14番でした。
だから、今までも体を鍛えたいと思うのかもしれません」

というものでした。


■これは心理学的に言われることなのですが、
人は、その人のルーツを探っていくと、

”その人の幼少期・少年期にある(ことがある)“

という話があります。

そして、上記の「生まれ月による運動能力の差」の話は
幼少期の私にとって、自分の根幹を作る大きな出来事だったのです。

たかが、運動。
たかが、部活。

そうはいっても、

足が速ければモテる。
運動ができれば尊敬される。
喧嘩が強ければ偉い、

そんなルールが支配していた幼少期・少年期では、
ただ、それができないだけで、ピュアなハートは
結構傷ついたりするもの。


そして、運動能力、足の速さ、
それらで全く周りに勝てなかった自分は、

その能力の不足について、

“「オレはダメなんだ」、というコンプレックスを抱え続けていた”

わけです。


■しかし、先ほどご紹介した記事で、
そんな考えが、ガラリと変わりました。


『遅生まれの運動能力優位』によると、
別に、運動能力はセンスや実力差ではなく、
中学3年生までは単純に、

“「4~9月生まれ」と「10~3月生まれ」では
 生物学的に、運動能力の差異が発生するもの”

ということが証明された、というわけです。


ちなみに、私は12月生まれ。


そして、ふと思ったのです

「あれ、運動能力がないんじゃなくて、
ただ12月生まれだったから、負け続けたんじゃないか」

「別に自分の運動神経など、否定しなくてもいいんじゃないか」

「コンプレックスなど持つ必要、なかったのではないか」

と。

そして、わずか1つの情報で、
しかももう20年以上前の話なのに、
“記憶が書き変わる”感覚を覚えたのでした。


■そして、思います。

多くの人にとっても、

自分自身をどう見るかという「自己認識」も、
自分と誰かの「人間関係」も、
誰かのことを評価する「他者の評価」も、
あらゆる、殆どのことが、意外と

“『自分の思い込み』から成り立っている”

こと、多いのではないかと思うのです。
(というより、殆どそう)


自分がダメだ、
あいつがダメだ、
彼はすごい、できる、
彼女は私のことをこうこう思ってるに違いない。

人は、自分に対しても、
人に対していろんな“定義付け”をします。

そして、そう思ったのは
「何かしらのルーツ」があり、
“そう思うようになる”のです。


でも、非常に、非常に大切なポイントは、


【自分が思ったことが、事実とは限らない】


ということなのです。


■先ほどの私のことを例に出すならば。

私は自分のことを、これまでずっと
「自分は元々運動ができない」「運動神経がない」
と思ってきました。

それは、背番号14番で、身長が低く、
後輩にもバカにされ続けてきたから。

そして、「運動神経がない」と言わしめる
”敗北”を数多味わったから。


しかし、ある研究で『後半に生まれたこと』が不利な理由である、
という新たな情報が、私に入ってきました。

すると、時を超えて
『自分の、自分に対するパラダイム(見方)』が変わりました。

別に、「運動神経がなかった」わけではないのです。


そして、同様の“思い込みに縛られる”経験は、
私だけではなく、皆様にもあるのではないだろうか、
と思います。


それがプラスのものならば、よい。
しかし、それが自分を制約していたら、
もったいないです。

意識してもせずとも、
「自分のパラダイム(ものの見方)」は、
“行動”に影響を与え、人生における”結果”にも、
大きな影響を与えます。

「自分はこれが苦手だから」
「自分は昔からこういう性格だから」
「これぐらいまでが自らの器だろう」

そんな風に自分のことを考えている方もいるかもしれません。

しかし、“そう思ったきっかけ”というのは、
必ずしも正しいとは限らないのです。

だから、そう思っているのは、
そう思っているだけであって、


【事実ではなく、思い込みかも知れない】


と認識しておくことが、
自らの可能性を拡げ続けるために、
大変重要ことである、そんなこと思った次第です。

【本日の名言】 自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、
世界を真に見ることができない。
自己が自由に、自在に動くとき、
世界もいきいきと生動する。

道元”

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