そしてみんなクサくなった ー銀杏とぎんなんの教訓ー
								(本日のお話 1834字/読了時間2分)
■こんにちは。紀藤です。
ここ数日、異様に忙しく、研修の実施や研修プログラムの開発(さらにランニング)などで、勝手に忙殺されています。
何とか確保してきたランニングの時間も、ここ数日はバタバタで、この3ヶ月で初めて3日連続で走れておらず、悔しさを感じております…涙。
人の体は正直なもので、練習をしなくなるとすぐに走力が落ちてしまいますので、何とか立て直していきたいと思っている今日この頃。
さてそんな中、どうでも良い話なのですが、「生まれて初めて銀杏の実を拾って調理しようとした」体験をいたしました。
しょうもない話で恐縮ですが、個人的には興味深い体験だったので、そこからの学びを書いてみたいと思います。
それではどうぞ!
■そこにも、ここにも、あそこにもあるアイツ
この季節になると、いつも公園に落ちていて存在感を放っている植物があります。そう、言わずもがな「銀杏(イチョウ)の木」です。
銀杏の木のそばには、無数のぎんなんの実が落ちており、それが自転車や人に踏まれると、強烈な匂いを放ち、「秋が来たな⋯!」と感じさせます。なんという強い存在感でしょう。
しかもあんなに臭い(直接的で申し訳ない)のに、茶碗蒸しに入ると彩りと風味を添え、オーブントースターで炙って塩を振れば、日本酒のお供としても最高になる。幼い頃、父が銀杏を炙ってビールを飲んでいた記憶がふと蘇ります。
あぁ、こんなにも身近で、視覚・嗅覚・味覚を刺激し、季節を知らせてくれる植物は他にあるだろうか⋯。ずっとスルーしてきてごめんよ。
■「臭わないオムツの袋」に捕獲してみた
「銀杏って、公園に落ちてるのを拾って食べられるのかな?」
先日のお休みに、家族で公園に出かけたときに妻に何気なく聞いてみました。すると妻。
「食べられるよ。私のお母さん、よく公園で拾って家で食べてたよ。数日水につけておくと実が取りやすくなるんだって」
とのこと。「なるほど」と、自然な流れで「じゃあ試してみようか」という話になりました。
⋯とはいえ、あの独特な臭い。エナント酸と酪酸がその元であるとのことで「蒸れた靴下、人間の排泄物、バターの腐った匂い」などと、サイアクな臭いの言語のフルコンボのような表現がされます。
当然、そのまま持ち帰るわけにもいきません。そこで、息子の「おむつ用:臭わない袋」に大量の銀杏を拾い集め、家に持ち帰ることにしました。サイアクな臭いを封じる、最高のコラボレーション・ツールでした。
■そして、みんなクサくなった
それから数日⋯。
バケツに水を入れて数日置いたものを、頃合いを見て流しへ運びました。
ゴム手袋をして、ぎんなんの実を剥がす作業を始めましたが――まるで下水処理をしているかのような強烈な匂いです。
作業中、部屋中がトイレのような匂いに包まれ、少し悲しい気持ちになりながらも、しかし実を向いていくと、あの見慣れたぎんなんが姿を現しました。
最後までなんとか処理を終え、ベランダで陰干しすることに。
しかし、近くのスーパーに行くと。きれいに処理された銀杏が「120円」で売られているのを見て、愕然としました。この物価高で、120円。
(この労力で120円か⋯)
そう思うと同時に、心の奥でなんだか大切なことを見落としているような気もしたのでした。
その理由を考えます。
■「体験という“プライスレス”な価値」
さて、この銀杏の処理プロセスを振り返って、思ったことがあります。
それは、「得か損か」「効率が良いか悪いか」で考えてしまう癖がある――ということです。
「この労力で120円か⋯」。そんなみみっちい自分に気づくのです。
本当に大事なのは、120円で食べられるとかそんな話ではないのです。
「今まで何気なく見過ごしてきた銀杏の木や実と向き合い、自然の中にあるものを丁寧に観察するという”体験”そのものが大事だった」はず。
なのに、いつからか効率ばかりを求め、そこにある“あたりまえのもの”に意識を向けなくなってしまう。
自然、植物、季節の移ろい、そうしたものこそ、日々の中に豊かさをもたらしてくれるものなのに。。。
忙しさに流されず、少し立ち止まって“余白”を楽しむ。
ぎんなんの臭いとともに、そんな時間の大切さを感じさせられたのでした。
これから季節も変わっていきますが、1日1日を大事にしたいな、感じた次第。
(ただ、もう銀杏は拾わなくていいかな…臭いので)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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