なぜ、つい人と比べてしまうのか? ―「社会的比較理論」の原点を読む―
(本日のお話:3356字/読了時間4分)
■こんにちは。紀藤です。
先日より、以前から関わらせていただいている
「企業内大学」の立ち上げと、初の入学者のチームビルディング研修の実施など、
行わせていただいています。
改めて、皆で意見を交えながら、
一つのものを形にしていくということは、
何ともワクワクするものだなあ…と関わらせていただいたことに
改めて感謝の想いを感じている次第です。
新しいことを、もっともっと挑戦しないとな、と思います。
*
さて、本日のお話です。
ちょっと恥ずかしいのですが、
私、いい歳になったのにも関わらず、しばしば(いや、頻繁にか)
「誰かと自分を比べてしまいがち」だな…と感じることがあります。
「比べるのは過去の自分」
「人と比べなくていい」。
自己啓発書ではよくいわれますし、自分もそのようにすべきだと思っています。
そもそも条件が違うのだから、他者と比べても、モノサシが違うから仕方ない。
…でも、つい比べてしまうこともある。
たとえば、ランニングや学びなど、自分が大切にしていることに取り組む、
そして、近しい頑張っている人がいるとそうです。
「彼は今日あれぐらい頑張っていた。でも、自分は今日の練習で勝ち切れなかった。
自分は粘り強さが足りない…!」と思います。
あるいは、みんなでミーティングをしている場もそう。
他の人がクリティカルな意見を論理的に伝えている(と感じる)。
自分はシンプルかつ的を射た発言ができない(と感じる)。
「ああ、自分はクリティカルシンキングが弱すぎだわ…」と思ってみたり。
それは本当に事実なのか、それとも自分の思い込みなのか。
分けて考えようとするものの、その前提には「他者との比較」があるわけです。
SNSなどでさまざまな人の情報が入ってくる今は、
比較が非常にしやすい時代のようにも思います。
…では、そもそも「社会的比較」とは何なのか?
そんなことがふと気になりました。
研究というレンズを通してみることで、少し距離を置いて、
この「誰かと比べる」を見ることができるかもしれない。
ということで、今日は、その研究の原点となった、
1954年の代表的な論文をご紹介します。
中心にあるのは、
「人は自分の意見や能力を評価するために、他者と比較する」という考え方です。
それでは、どうぞ!
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<本日の論文>
タイトル:A Theory of Social Comparison Processes(社会的比較プロセスの理論)
掲載誌:Human Relations, Vol.7, No.2, pp.117–140
出版年:1954年
著者:Leon Festinger(レオン・フェスティンガー)
所属:ミネソタ大学
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■30秒でわかる本論文のポイント
・人には、自分の意見や能力を評価したいという欲求があると考えられています。
・客観的な評価基準が得られないとき、人は他者との比較を手がかりにします。
・比較対象には、意見や能力が極端に離れた人より、
自分に近い人を選びやすいとされています。
・能力を高めたいという欲求や、集団との違いを縮める動きが、
競争や意見の変化につながると論じられています。
※なお、これは9つの仮説と関連研究を組み合わせた理論論文であり、
すべてを確定した事実として示したものではありません。
■研究の背景と目的
フェスティンガーは、それ以前に、
集団内で人々の意見がどのように影響し合うかを研究していました。
今回の論文では、その枠組みを「能力の評価」にも広げています。
「自分の考えは正しいのか」「自分はどれくらいできるのか」。
一見すると別の問いですが、どちらも、自分を評価するための基準が必要です。
その基準として他者が使われるとき、どんな比較が起こり、
個人や集団にどんな影響が生じるのか。
それを一つの理論で説明することが目的でした。
■主な結果(仮説)
本論文は、一つの実験の方法と結果を報告する形式ではありません。
9つの基本仮説を示し、そこから導かれる予測を、
先行研究や関連する実験と照らし合わせながら展開しています。
ここでは、論文で提示された仮説と、それを支える研究を、
主な論点ごとに整理します。
◯仮説1:比較には「自分を評価する」という役割がある
理論の出発点は、人には自分の意見や能力を評価したいという欲求がある、
ということです。
しかし、その評価は、自分一人では難しいことがあります。
たとえば、ある距離を走ったタイムは測れます。
でも、そのタイムが「速いのか、遅いのか」を判断するには、別の基準が必要です。
論文でも、走力が例として使われています。
客観的な基準が得られないとき、人は他者の意見や成績と比べて、
自分の位置を確かめようとする。
比較は、自己評価の手がかりになるわけです。
◯仮説2:自分に近い人を、比較対象に選びやすい
著者は、相手との意見や能力の差が大きくなるほど、
比較する傾向は弱まると考えました。
チェスを覚えたばかりの人が、名人と比較して自分の実力を判断することは、
あまり役に立ちません。
むしろ、近い実力の人のほうが、自分の位置を確かめやすいのです。
関連する実験では、自分の得点が集団の得点に近い場合、
大きく上回ったり下回ったりする場合より、
次に目指す得点の変動が小さくなることも示されています。
つまり、自分に近い他者は、
評価を安定させる基準にもなり得ると考えられます。
◯仮説3:能力には「より良くなりたい」という方向がある
能力と意見には、違いもあります。
能力については、「もっと速く」「もっと上手く」という、向上への方向がある。
一方、意見は、数値的に高い側へ移れば、それだけで良いというものではありません。
ただし、「能力を高めたい」ことと、
「必ず自分より上の人と比較する」ことは、同じではありません。
比較相手を選ぶ際には、先ほどの「自分に近いかどうか」も関わります。
また、能力は、向上したいと思えばすぐに変えられるわけではありません。
意欲があっても、実際の成績を変えるには制約がある。
この違いが、能力をめぐる競争のあり方に関わると論じられています。
◯仮説4:大切な集団ほど、比較の影響が強まりやすい
自分にとって重要な集団では、
その人たちとの違いを縮めようとする圧力が強まるとされています。
関連する実験では、集団への魅力が高い条件で、他者より低い得点を取ると、
魅力が低い条件より、自分の出来を悪く感じることが示されました。
また、集団との不一致に対しては、
「自分を変える」「他者に働きかける」「相手を比較対象から外す」
という動きが考えられています。
集団の多数派に近い人は、自分の意見を変えるより、他者を変えようとしやすい。
反対に、多数派から離れた人は、自分の意見を変えやすいことが、
関連研究で示されています。
■考察
この論文の特徴は、「意見が揃っていくこと」と「能力を競い合うこと」を、
自己評価という共通の視点から説明しようとしたところです。
意見では、周囲との一致が「自分の考えは正しそうだ」という感覚を支える。
能力では、それに加えて「もっと良くなりたい」という方向が働く。
この理論で考えると、私がランニングや学びの仲間とつい比べてしまうことも、
少し理解しやすくなります。
自分にとって大切な領域で、近い人を基準に、自分の位置を確かめようとしている。
そんな見方もできるのかもしれません。
ただし、比較によって評価が安定することと、その評価が客観的に正しいことは、
分けて考える必要があります。
■限界
まず、理論のすべてが、同じ程度に実証されているわけではありません。
著者自身も、十分なデータがない部分を明記しています。
また、能力の向上を望む傾向について、
著者は「少なくとも西洋文化では」と述べています。
文化によって異なる可能性にも触れていますが、
その問題を詳しく検証してはいません。
さらに、自尊心を守るための比較や、SNSを通じた比較などを、
この論文だけで説明することはできません。
現在の比較研究の全体像ではなく、
その出発点を示す論文として読むことが大切だと思います。
■まとめと感想
1954年の論文ということでしたが1954年の時点で、
いくつもの仮説と、それを裏付ける実験とともに紹介していたことが、
興味深く思いました。
人はなぜ社会的比較をしてしまうのか。
そして、その文脈はどう変わっていくのか。
それは、実は新しいようで古い問いなのかもしれません。
この領域を掘り下げることで、自分が比較してしまうことについても、
少し距離を置いて捉えられるかもしれない。
そんな始まりを見た論文でございました。
続いて、2000年や2018年の論文などもありますので、
このあたりも順を追って紹介していきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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