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1903号 2019年5月4日

「仕事が意義あるものである」という考えを捨てなければならない理由

(本日のお話 2958字/読了時間5分)


■おはようございます。紀藤です。

昨日の10キロのランニング。
また、その後午後からシェアオフィスへ行き読書、
またホームページの作成など。



さて、本日のお話です。

昨日、エリック・ホッファーなる哲学者について、
皆様にご紹介させていただきました。

(以下、昨日ご紹介した本です)

『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』
https://www.amazon.co.jp/dp/4878934735/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_KR-YCb2GQ27XZ

今日も、このエリック・ホッファーの話から、
気づきと学びをご共有させていただきたいと思います。


タイトルは、


【「仕事が意義あるものである」という考えを捨てなければならない理由】


それでは、どうぞ。


■「仕事に意義を見出す」こと。

このことは、
「研修コンテンツでよく使われるランキング」の1,2位を争うくらい、
王道中の王道のテーマです。

ですから、

”「仕事に意義あるもの」という考えを捨てるべし”

などというと、

・今の時流に逆らっている
・そんなものは真の仕事とは呼ばない
・意義のない仕事なんて、種のない枝豆みたいなものだ

などと、特に研修会社の皆々様から、
反論をもらいそうです。

(かく言う私も研修会社ですが…汗)


■実際、『7つの習慣』でも同じように

”「仕事に意義を見出すこと」は大事である”

と言いますし、私自身、自分の人生で、
とても大切にしていることが「仕事への意義」なのです。

ですから、エリック・ホッファーがその著書にて、

『仕事が意義あるものであるという考えを捨てなければなりません』

と語る言葉を目にしたときには、
思わず何度も読み返してしまいました。

しかし、噛み締めてみれば見るほど、
その言葉の真意に、深いものを感じてくるのです。


(以下、その前後の文も含め、引用いたします)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』 より


私のいう仕事とは、生計を立てるためにする仕事のことではありません。

われわれは、仕事が意義あるものであるという考えを捨てなければなりません。

この世の中に、万人に対して、
充実感を与えられるような意義のある職業は存在していないのです。

自分の仕事を意義深いものにしてくれと要求することは、
人間の見当違いだと、かつてサンタヤナはいいました。

産業社会においては、多くの職業が、
それだけを仕上げても無意味だとわかっている仕事を伴っているのです。

そういうわけで、私は、1日6時間、週5日以上働くべきではないと考えています。

本当の生活が始まるのは、その後なのです。


※引用:『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』より

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


■エリック・ホッファーは1902~83年の生涯でしたから、
この本で語られた時代背景は、
工業産業時代真っ只中の1960ー70年頃でしょうか。

ですから、知的な仕事などは。
万人にとって当たり前ではなく、むしろ

・トマトの収穫
・砂金洗い
・線路の建築
・プルーンを洗う

など、THE肉体労働で、生計のための仕事も多かったはず。

そしてそれを否定するものでもありませんし、
飯を食うための作業=仕事というのは、
ある意味、普通の考えだったとも思えます。


■今は、時代が変わり、
「知識・情報社会」になりました。
否、「テクノロジー・AI社会」なのかもしれません。

そんな時代では、創造する喜びや、思索する充実感、
協働する楽しさに溢れた仕事の割合は、増えています。

それでもなお、世界は広く、
日本という狭い範囲に絞ってみても、

いろいろなステージの、
いろいろな仕事が存在していて、

知識を使う仕事もあれば、
単純作業の仕事もあり、

本当に楽しんで仕事ができる人もいれば、
早く終わらないかなという思いで働く人もいて

後者の状況で働く人には、

「今の仕事に意義を見出しましょう」

とアツく語られても、

なかなかその仕事自体に意味を見出せない、
どう考えても、生計を立てるための手段になってしまう。

そんなことは、たくさん、たくさんあると思うのです。


■むしろ、

”今の自分の仕事は心から意義を感じていて、
やりがいもあって、自分の人生をかけてやっているのだ”

と言い切れる人は、敢えて極端に行ってしまうと、
偶然やタイミングが重なった「幸運な少数派」、
とも言えるのかもしれません。


実際に、エリック・ホッファー自身、
季節労働者として社会の最底辺で働く人たち(=手や足を無くした日雇い労働者)
と共に働いていた生々しい現実の中で、

全ての人が自分のために働き、
そこで友人になることはない現実(協働などない)

を体験してきました。

そして、その経験から、

『”万人に対して”、充実感を与えられるような意義のある職業は存在していない』

と述べているのですし、その環境は今なお存在しています。

ないと思っても、実際に見えていないだけ。
そういった世界があることは、紛れもない事実なのです。


■しかし、では、そういった人は、

「有意義な人生」を送れないのか、
つまり、意義を感じることができないのか、

というと、それは違うのです。

エリック・ホッファーの語った、

【「仕事が意義あるものである」という考えを捨てなければならない】

という真意が、そこにあるのではないか、
私はそう思ったのです。

つまり、こういうことです。


1,(生計を立てるための)仕事が意義あるものであるという考えを捨てること。

2,自分が誇りに思えるような技術の習得(=真の仕事)に身を捧げること。

3,技術習得の喜びこそが、人間の成熟の証であり、有意義な人生である


この提案は、今の状況が満たされず、
抜けようと思っても抜けられないどんな状況に置かれている人であっても、

その意志と主体性により、
「有意義な人生」「意義ある人生」への選択肢を、
明示しているように思えたのです。


■今の時代、働き方改革、テクノロジーの進歩などで、
仕事後にも多くの時間を使いやすい環境になってきました。

しかし一方、その余った時間を、
「どうしたらよいのだろう」と考える人も増えているようです。

その終わった時間で、

動画をひたすら見ふけったり
ひたすらゲームだけにハマったり、
ただただ消費するだけになって、
何も生産せず、怠惰に耽ったりすることは、

たしかに一時的には快楽をもたらしますが、
ずーっと続けていると

「自分はこのままでいいのだろうか」と悶々として、
自分自身の自尊心を傷つけたりします。


そんな時代だからこそ、改めてホッファーの語った、

【「仕事が意義あるものである」という考えを捨て、
 ”本当の生活が始まるのは、その後(=仕事の後)である】

という言葉に代表される、
真に自分が誇りを持てる技術習得に身を捧げることが、
求められていることなのかもしれない、と思ったのです。


仕事・余暇、その間をわけず、
人生として学び続ける、誇りを持ち続けられる。

そんな常識ができたとしたら、
個人としても、社会全体としては有意義で、

今言われているような定年後の問題も解決し、
一人一人がもっともっと充実感を持ったライフスタイルをつくる、
一助になるのではなかろうか、

そんなことを思った次第です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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<本日の名言>


「何者かであり続けている」ことへの不安から、
何者にもなれない人たちがいる。

エリック・ホッファー

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