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2364号 2020年8月10日

「問い、考え、語り、聞くこと」が、自らの幅を拡げる基礎になる

(本日のお話  2010字/読了時間3分)

■こんにちは。紀藤です。

さて、夏季休暇に入っている方も
多いのでしょうか。

そんな最中の日曜日、私は
朝8:30から某企業の役員の方をお招きした
シークレット勉強会(オンライン)の開催でした。

組織と個人の”両利きの経営”について
思いを馳せた実りある時間でした。
(講師の方を含め、皆さま
ありがとうございました!)

そして、夕方からは
妻の実家の茨城に帰省でした。



さて、早速ですが本日のお話です。

昨日、とある本

『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』

をご紹介いたしました。

読み終わった後も、
本質的な内容と感じて、
読み直して言葉を噛み締めては、

「そうだよなあ」

と納得をしています。

今日は、この本の中から
改めて学びと気付きを皆さまに
ご共有させていただければと思います。

タイトルは、

【「問い、考え、語り、聞くこと」が、自らの幅を拡げる基礎になる】。

それでは、どうぞ。

■”問う”こと。

人は、問われることで、
深く考えることができます。

問題の答えを眺めていても
なんとなくわかった気に
なるかもしれない。

ただ、

「自分で考える」

ことを迫らなければ
思考は深まらないものです。

(考えるって、結構疲れますから)

そして、それを着火する
スターターのようなものが、

”問い”

なのでしょう。

■そして、

”問い”には

相手が必要です。

一人でもじっくり考えられる人は
いるかもしれません。

そしてあれやこれや一人で深めて
楽しめる、”思考の一人遊び”が好きな人も
いるでしょう。

でも、そういう人は希少です。

■凸と凹のように、

「問い」があるから
「考える」ことが触発される。

そして、そこに他者が介在して
他者から”問われる”ことで
より真剣に

”考えよう”

と思えるのでしょう。

■同時に、

「考える」ことは、
「語る」こととセットです。

「語る」から、
言葉にするから
思考が深まるものです。

そして言語化しようと思っても
出来ないプロセスから、

自分が何を理解して、
何を理解していないのかに
気がつくものです。

考えたことを
言葉にしなければ
考えが明瞭になることはありません。



「どのように考えているの?」と問われた時、

自らの思考を
言葉にして”触れられる形”にして
固定化し、語れなければ、

ふわふわ浮かぶ雲のような
近づいたら霧散してしまう
曖昧な思考にしか過ぎません。

”考えている風”でいても、

「言葉にできなければ、
自分でも理解できていない」

つまり、真に考えてはいない
ということです。

■かつ、「語る」ことによって、
学びが深まることものです。

読んだ本だって、そこからの学びを
「語り」、伝えることをしなければ、
1週間もすればほとんど記憶から
消え去ってしまいます。

■だからこそ、

「考える」ことと
「語る」ことはワンセットにすべきです。

「語る」からこそ、
考えが深まるのですから。

そして、「語る」には
当然、他者が必要となります。
すると、対話の形を取ることになる。

ゆえに、

『問い、考え、語り、聞くこと』

が「考える体験」となり、
それを「哲学」と呼ぶ、、、

そんなことを先述の著書では
語っているのでした。

(私の解釈も含んでおります)

■そしてこの一連の流れ、
『問い、考え、語り、聞くこと』ことは重要な

「自分に幅を持たせる、知的行為の基礎である」

と感じます。

■そしてこの中でも特に、

「考え、語ること」

は実に重要だと、
個人的に感じています。

自分の中に渦巻く、
幾重にも連なる思考の地層を、

的確に表現する言葉を編むことは、
簡単なようで難しいもの。

難しいからと言って、

安直かつ単純な
抽象論でまとめたり、

繊細な心の襞を持つ
複雑な感情を

「嬉しい、楽しい、さびしい」

といった大きすぎる概念の単語で
ひとくくりにするのも、
何か違う気がしたりするもの。

■しかし、人は
「言葉」によって思考し、
「言葉」によって世界を定義しています。

例えば、
「切ない」という言葉があるから、

「切ない」という感情に
生命が与えられるのです。

「切ない」という言葉が
もし存在しなければ

息苦しい、胸がぐっとつまる、辛い、
という、似ているけれども、
厳密には違う言葉で表現せざるを得ず

「切ない」の世界観を理解することは
決して出来ないものです。

■そして、これは個人の感想ですが

「幅がある人」

とは、

”世の中の知識や感情において、
広がりを頭と心で理解している人”

ではないか、
と私は思っています。

もちろん博識であることもそう。
ただ、知識だけの無機質ではなく、
人間の心を理解している。

その「知識」と「感情」の両面で、

自分を理解すること、

誰かを理解することができる。

そして心の内側に広がる
膨大な色彩で描かれた心象風景を
「言葉」という筆で表現することができる、

そんな人を「幅がある人」と
呼べるのではなかろうか、

と感じます。

■自分の内側にある
形のない思考に形を与えるには、
修行が必要です。

そして、その基礎を作るためには、

「考える」という
知的な格闘、葛藤を繰り返すこと。

そして同時に

「語ること」を通じて、
人類が進化の過程で発展させてきた
思考を共有する道具としての言葉を学び、
磨き続けること。

その「言葉」に秘められた概念を
的確に理解し、操ること。

そうすることで人は、

「考える」

という行為を身につけ、自由になる。

そして、人としても
幅を持つようになるのでしょう。

ゆえに、

【「問い、考え、語り、聞くこと」が、自らの幅を拡げる基礎になる 】

のであろう、

そんな事を感じている次第です。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。
本日も皆さまにとって、素晴らしい1日となりますように。

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<本日の名言>

人間は一本の葦にすぎない。
自然のうちでもっとも弱いものである。
だがそれは考える葦である。

ブレーズ・パスカル

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